昨日の大縄跳びの結果や一昨日の稲木を見つけたときの気持ちを記事にしたが、他の人からすれば「それがどうしたの?」といわれるような、取るに足らないことだと思う。
それは、あくまでも僕の個人的なことで、日記につけるなら「自転車道から稲木を発見。久しぶりに見た。」「運動会。大縄跳びは2位」ぐらいのそっけない記述になる。
これを散文的にならず、臨場感を出してみたい。さらにその時の気持ちを正確かつ効果的に表現したい。
そうやって文章を練っていくと、説明調になったり間延びしてはいけない、「短く」「端的に」「テンポよく」「配列に気をつける」と考えている自分がいる。
ふと「ひょっとして、このような過程から詩が生まれるのか?」という考えが頭をよぎった。
小学校の国語で「詩」というものを習い、作ってみましょうと言われ作ったことを覚えている。それ以来「詩」とはなんとなくこんな感じのもので、「詩作」はそれに似せて作るものというものだと漠然と考えていた。
僕は詩を読まないし作らない。詩について考えたこともなかった。だから、詩はこのような過程を経て生まれるのだろうかと一つの考えが出てきたので、ちょっとびっくりしている。忘れないうちに記録しておこうと思いここに記す。
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