2008年7月18日金曜日

カラヤン・サウンド

先日の「ロ短調ミサ」の文中で“カラヤン臭”という言い方をしたが、これはどぎつい表現だと思う。
“○○臭”というとあまりいい意味で使わないと思う。「悪臭」「口臭」「加齢臭」などのように。

じゃあカラヤンの指揮した演奏は、汚い音で不快感を与えるものかというと、とんでもない。磨き抜かれた美音で奏でられる極上のサウンドなのだ。俗に「カラヤン・サウンド」と言われる。
これを形容する言葉はいろいろとある、「流麗」「華麗」「ゴージャス」など。

ステレオ時代になってからの録音のほとんどが、ベルリン・フィルやウィーン・フィルという世界最高のオーケストラを使っていることが大きいと思うが、それだけではない。同じオケを使っても違う指揮者が振ると音が違うのだ。聞けばこれはカラヤンのものだとすぐ分かるほど、オーケストラの響きに特有の色と艶を持つ。他の指揮者にないものだ。
つまり、カラヤンは強烈な個性も持ち主で、曲を「カラヤン美学で染める人」だといえるのではないか。

カラヤン・サウンドはオーケストラの美しい音の一つの典型といえる。

ここからは、僕の個人的な好みの話だが、カラヤン・サウンドだ曲にぴったりマッチする場合と、そうでない場合があると思う。
曲と相性があわず、美音が不自然に浮いてしまっていると感じる時や、表面的な美しさとは裏腹になんとも言えない空虚感をおぼえる時がある。カラヤン・サウンドに問題ありなのか、カラヤンの音楽性と曲が合わないのか、僕の好みを合わないだけなのか、それはわからない。いずれにしろこのように感じ、演奏が鼻についた時のことを“カラヤン臭”と表現してみた。

このようなイメージを持っているため、バッハの曲は多分“カラヤン臭”を放つのではないかと、勝手に予想したわけだ。
結果は先日書いたように見事に裏切られてしまった。いや、裏切られてよかった。
おかげて、EMIのセットにある声楽作品(ミサ・ソレムニス、ドイツ・レクイエム、オラトリオ「四季」)を聞く気が俄然わいてきたのだ(笑)

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8 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

カラヤンの「音」ついては同じようなことを思っています。

ところで
カラヤンがクラシック音楽の全て、みたいな言われ方をしていた時代があったような気がします。ブランドとして「カラヤン」が社会的に認められていたのでしょう。
今ではカラヤンは絶対的ではなくone of themとして聴くことが出来ることが幸福です。
昔の田舎のレコード屋のクラシックはほとんどカラヤンだったのですから、困ったものでした。

匿名 さんのコメント...

“ミサ・ソレム二ス”は1966年にベルリン・フィルを振ったのがありますが。
モーツァルト『戴冠ミサ』とセットです。
 この場をお借りして・・BSで【パリ・ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団】の“ボレロ”を聴いて、優雅に吹いておられましたが出来ませんか?
ついでに『Caucasian ・・』を探していて同名タイトルから偶然見つけた私のお気に入り“酋長の行進”です。
http://jp.youtube.com/watch?v=y_szpKtAbCg&feature=related

よんちゃん さんのコメント...

ピースうさぎさん、こんにちは。
同じようなことをお考えですか、独りよがりの思いではないのがわかって、ちょっと安心しています。
昔はカラヤン・ファンかアンチ・カラヤンかの2極に分かれていたところもあったかと思います。今は冷静になってきたのか?相対的になってきたのか?仰るように「one of themとして聴くことが出来る」ようになったかと思います。

「昔の田舎のレコード屋のクラシックはほとんどカラヤンだったのです」
確かにそうです。僕の住むところは片田舎でしが、中学高校の頃行っていたレコード屋さん(今は潰れてありません)には、カラヤンのレコードがたくさんあったことを覚えています。

よんちゃん さんのコメント...

powellさん、こんにちは。

EMIのセットものの「ミサ・ソレム二ス」
は、1958年と1974年の2つがあります。ということは1966年のものはその中間ということでしょうか。

パリ・ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の演奏をBSでしていたのですか!!
それは聞きたかったです。ギャルドは大好きなんです。

匿名 さんのコメント...

こんばんは。

仰るとおり、
カラヤンについては私もよんちゃんさんと同意見なのですが、「カラヤン臭」については個人的には「上から目線」的な演奏が結構あってそれが鼻につく感じです。

作曲家への敬意がなければいけないし、時々それが感じられなくなったり・・。

決して嫌いな指揮者ではありません。

付け加えると、指揮者しか映さないコンサートヴィデオも嫌いです。

よんちゃん さんのコメント...

ニョッキさん、こんにちは。

こうして同意見の方がおられると、ほっとすると同時に自信がわいてきます。

「『上から目線』的な演奏」とか「作曲家への敬意がなければいけないし、時々それが感じられなくなったり・・。」
ということですが、なるほどなと頷けます。
それと同時に、自分は指揮者としてどうなのかと考えさせられる言葉です。

「指揮者しか映さないコンサートヴィデオ」は主にカラヤンもののことですか。カラヤンの映像は自身がいかにかっこよく映るかを中心にして編集してあるということを聞いたことがあります。音楽が中心ではなく、指揮者が中心の映像かも知れませんね。

コメント感謝です。これからもよろしくお願いします。

匿名 さんのコメント...

私見ですが、カラヤンは演奏会も総合芸術であるオペラのように考えたかったのではないでしょうか。
ドイツ・レクイエムでは、古代円形劇場のようなイメージで合唱団を配して、その中心で瞑想するように采配する指揮者の姿が、ずっと昔見たのに強い印象を残しています。
カリスマ性の指揮者は功罪論じられるのでしょうけれど、ウィーン・フィルに出し抜かれたりとか、ちょっとスキもあって全能の帝王ではないところが左甚五郎的な・・?
そういえば最近も、情念を両腕で懐くようなカラヤン独特の姿をパフォーマンスする指揮者を見ました。(^^)/

よんちゃん さんのコメント...

powellさん、こんにちは。
「演奏会も総合芸術であるオペラのように考えたかった」
なるほど、そう考えることができるのですね、今までなかった視点です。
ドイツ・レクイエムは実演で見られたのですか?それとも映像でしょうか?
いずれにせよ、視覚的要素を考慮に入れた合唱団の配置といえるのでしょうか。
見せる(魅せる)ことを考えた指揮者だったのかもしれません。