2007年8月1日水曜日

抽象的表現(2)

あーちゃんへ、
「フルトヴェングラーかカラヤンか」という本は読んだことがないので、引用部分の前後は不明です。だから余計に、文の言わんとするところがつかみにくいのかもしれない。
ドイツ語から日本語への翻訳の問題もあるかもしれない。(もっとわかりやすい日本語にしてくれ~)


この引用は遠藤さんの本にそのままのっていたものを書きました。
引用部分の前を要約すると、

カラヤンは毀誉褒貶の著しい音楽家で、クラシック音楽愛好家をかなり増やした一方で、批判も多く、音楽的内容が空疎であるetcいろいろ言われている。
では、カラヤンの演奏が大衆受けするハッタリだけのものかというと、決してそうではない。
と書いてあって、その次に前回紹介した文が続きます。

引用のあとは、遠藤さんの文をそのまま書きます。
「ここにカラヤンという音楽家の本質がある。指揮者が解釈という名の気ままな変更を加えることを許さず、楽曲本来の構造を純粋に、誰の耳にもわかるように提示するというのがカラヤンのやり方である。
そのためには自らの解釈を明晰かつ流麗な指揮でオーケストラに伝達し、オーケストラに対しても完璧を求めた。そうやって出てくる音楽は、緻密で豊かで美しかった。
明解なフレージング、ダイナミックな構成、濁りのない響き。大衆は、あるいは非ドイツ・ウィーン圏(特に日本)の音楽ファンは、カラヤンのハッタリに惑わされたのではなく、カラヤンによって純粋かつ完璧に楽曲本来の魅力を提示されたことによってクラシック音楽に引き込まれた言ったのである。」


この文は、カラヤンの演奏スタイルと小澤征爾の演奏スタイルにつながりがあるという文の流れに沿って、テーリヒェンの言葉を解釈しています。

遠藤さんの文は、わかりやすいです。
どれだけわかっているかは別にして、わかった気にさせてくれます。

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